日本でチャランゴを考える2004.12.30

 少し前の話で恐縮ながら、去る12月5日(日)東京は六本木ボデギータにて「チャランゴの集い」なる合同ライブをDIC資料館の石野氏と企画・主催し、おかげさまで大盛況に終えることができた。このライブにはソロ・チャランゴ奏者として日本国内などで活躍中の、石野雅彦、リッキー・ロドリゲス、小黒謙治、貝谷吉浩、保坂幸恵、ルイス・サルトール、福田大治、トヨ草薙の8名(出演順)が参加し、それぞれの個性が浮き彫りとなった興味深いステージであったと同時に日本のチャランゴ史に残ってしかるべき充実した内容のものになったと確信している。(レポートは、石野氏作成のものをご参照下さい。;http://www.musica-andina.jp/~dic/charango.html

 日本でチャランゴ奏者が一堂に会すライブとしては93年に一度、やはり東京で「マウロ・ヌニェス(没後20周年)記念コンサート」が開催されているが(ちなみにその時の出演チャランゴ奏者は、貝谷吉浩、富谷雅樹、エルネスト河本、佐野一弦、トヨ草薙、寺澤睦、福田大治の7名)、今回ボリビアから帰ってきてからの私の主たる関心は、それではこの11年の間に日本でどれだけの「チャランゴ文化」なるものが進展したか、ということに集約されていた。思えば日本で最初のチャランゴ奏者らが出始めたのが70年代中頃とすると既に30年の歴史があるわけで、その層の厚さに期待するのは自然なことだろう(余談だが「演奏会用」チャランゴの保有台数は日本がボリビアを凌いで世界一とも言われている)。
 
 チャランゴが16〜17世紀頃にボリビアで生まれた楽器であるということはもはや定説となっているが(ただしその歴史的・科学的立証は難しい)、今日ではボリビアのみならず日本や、欧州、それに南米各国(ペルー、アルゼンチン、チリ中心)でも多くのチャランゴ奏者が活躍している。ボリビア・チャランゴ協会(SBC)が2年毎にボリビア国内で開催する国際チャランゴフェスティバル(Encuentro Internacional del Charango)には毎回、世界中からプロ、アマ問わず数多くのチャランギスタが参加し、それぞれのお国で発展してきた「チャランゴ芸術」が披露される。そこではそれぞれの国でのチャランゴ音楽&奏法の傾向をつぶさに見ることができてとても興味深い。

 簡潔に、また極端な一般化を恐れずに述べれば、アルゼンチンの奏者はほとんどが御大ハイメ・トーレスの影響を受けており、全体にメロディーラインの美しさを大切にした艶っぽい浪漫(ロマン)主義的演奏が目立つ(ちなみに私なんかも大枠ではこの流れを組む奏者に入るのだろう)。もちろん近年ではハイメに敢えて背を向けた、いわば新古典主義的(技巧的)スタイルの名手も続々と出てきている。一方チリの奏者たちは、インティ・イリマニ、キラパジュンなどの著名なグループが60年代後半よりエルネスト・カブール(ボリビア)の強い影響のもとで取り入れてきたボリビア・チャランゴ奏法をクラシックなど他ジャンルの音楽にインスパイアされながらとりわけ洗練された形で発展させてきたようだ。また、欧州(スペイン、フランス、ドイツなど)の奏者となるとボリビアスタイルのまるごとコピーからオリジナルまで実に多種多様で、必ずしもチャランゴの「本場」を意識しているわけではない演奏も目立つ。ボリビアの隣国ペルーの場合は、かつてフェスティバルに参加したプロ奏者がいないので私が同国に短期留学した時に見聞きした経験からしか言えないが、一般に「発祥地」とされているボリビア(ポトシ&スクレ地方)と並んでチャランゴの源流を求めることが出来る南部アヤクーチョ地方などの独自の伝統的奏法は、現代ペルー(民俗)音楽界では希少価値となっており、かつてレッスンを受けたこともあるペルー随一の巨匠ハイメ・グァルディア氏が嘆いていたように「チャランゴのボリビア化」がペルー音楽界を覆っているようだ。

 さて本題であるが、欧州より10年くらい遅れてチャランゴが紹介された日本では、70年代に「フォルクローレ」というジャンルがアルゼンチンまたは欧州経由で伝播してきたこともあって、本格的な(ボリビア本国で演奏されていたような)スタイルのチャランゴ奏法を習得・披露する奏者がたくさん出始めるには少なくとも80年代中期を待たねばならなかった。そして日本のチャランゴ界にとって最もインパクトが大きかったのは80年のカブール初来日公演であった。これを機にボリビアからの直輸入盤なども徐々に紹介されるようになり、日本のチャランゴ奏者たちはカブールの他にもセンテーリャス、アレハンドロ・カマラ、それに言わずと知れたスーパースター級グループ・カルカスのチャランゴ奏法などをコピーするのに必死となった。その中でも後に93年ライブ(前記)に出演することにもなる幾人かの奏者は、現地の奏法などを十分に研究した上でそれぞれ独自の路線を模索していった。チャランゴの「本場」の人々にも真似の出来ない世界を目指したのである。ところが一方では、これは私自身が同ライブに最年少奏者として参加した当時から気掛かりであったことだが、実はその頃から新人チャランゴ・ソロ奏者の出現がほとんど皆無に近い状況にあったのである。そしてこうした懸念は今日でも大して変わっていない。90年代を通じて日本におけるチャランゴ人口は着実に伸びているのに、である。また、ボリビアと日本の距離は情報の氾濫、格安航空券の出現などの要因によって確実に縮まっているのに、である。それはなぜか?この機会に私見(試見)ながら少々説明してみたいと思う。

 チャランゴのみならず、これは日本で「フォルクローレ」と呼ばれるジャンルの愛好家全体に共通することであるが、日本の演奏者は大抵の場合、現地の音源をそのままコピーすることに終始してきた。これは言うまでもなく、独創性を追求する他の国々(特に南米諸国)のチャランゴ奏者とは全く異なるアプローチである。そうすると、何らかの事由で現地(ここではボリビアを指す)でチャランゴ・ソロというジャンルが下火となりCDリリースなどが減少するという状況になれば、数年くらいのタイムラグでもって日本のチャランゴ界にも同様の傾向が及ぶことが危惧されよう。そして、実は90年代前半からボリビアのチャランゴ界を覆っている状況は、決して芳しいものではないのである。率直に言って、一般にボリビア音楽界では、また一般のボリビア国民にとっては、チャランゴ・ソロというジャンル(あるいはスタイル)は以前にも増して地味な存在となっている。

 ではなぜ「国民楽器」として認識されている本家本元のボリビアで、「ソロ」というスタイルがポピュラーでないのか・・・、その一つの理由はボリビア音楽の「大衆化」に求めることができるのではないか、と考える。そもそも「フォルクローレ」と外国で呼ばれる音楽は「田舎」や「大衆」のものではないのか、と日本では思われているのかも知れないが、実際にはボリビアでは「フォルクローレ(→現地ではムシカ・ナシオナル(国民音楽)と呼称される)」と言ってもそのジャンルの定義すら極めて曖昧なものとなっている。日本の音楽界に例えると、故・美空ひばり、北島三郎、吉田兄弟(津軽三味線)、ネーネーズ(沖縄)からサザン、ウルフルズ、さだまさしに至るまでおよそ主たる「和風」ポピュラー音楽(民謡をベースにしたものも含む)をすべて含める形となってしまう。さすがに「和」を感じさせるものであるからにはモーニング娘。やSMAPなどは入れるべきではないのだが、近年のボリビア音楽の状況を見るとそれも随分とあやしい。

 そして上記のようにその定義自体が混沌としたムシカ・ナシオナルはまた同時に、それぞれのファン層を社会階級によって分化させていった。カルカスのような国民的スターは別格としても、たいがいのアーティストやグループのコンサート、ライブに行って感じるのは、聴衆がだいたい階層別に分かれていることである。もっぱら野趣を前面に出し、踊りたくなるようなノリの良いステージを作り出すグループ(アワティーニャス、カラマルカ、ハチャ・マリュクなど)は一般に庶民に人気があり、客席もチョリータのおばさん(先住民出自で都会に移住して何代にもわたる人々)などの姿が目立つ。これらの聴衆は、そこで奏でられる音楽を聴くというよりは、むしろ一緒に手拍子したり踊って楽しむというスタンスをとる。他方、いわゆるヌエバ・カンシオン系(社会派)や新しいスタイルのアーティストの客層はだいたいが大学生(←必ずしも裕福ではない)や中間層(#註1)である。その分野の「通」が集まるライブハウスでグラスを傾けて歌詞などに共感しながら静かに聴くというお客さんが多いように思う。ちなみにボリビアでの私のソロライブもそういう雰囲気に包まれる。また、ボリビアのほとんどのムシカ・ナシオナルのグループがレパートリーとする代表的舞曲の一つ「クエカ」もその最も古い様式を20世紀初頭のスクレ(ボリビア南部都市)のスタイルに求めるならば、明らかに中・上流階級のサロン音楽である。しかしながら、結論としてここ数年ボリビア音楽界で最も人気があり集客力があるのは、最初に述べた「歌って踊れる」グループである(#註2)。

(#註1;貧富の差の激しいラテンアメリカで言う中間層(=中産階級)は日本のいわゆる「中流」とは異なりかなり裕福な家庭も含まれる。例えば「貧困層」が7割近くを占めるボリビアでは中間層とは、経済所得で言えば上位10〜30%の人々を指す。)

(#註2;商業用語である「人気」や「集客力」というのは、場合によっては芸術的価値とは無縁であることは言うまでもない。)

 そんな中で、チャランゴ・ソロの音楽は(チャランゴと言っても様々なスタイルがあるので主として都会で聴かれCDにもなっている類の物に限れば)、やはり一種のエリート趣向を逃れることはできないものとなっている。もちろん演奏される舞曲形式などがワイニョやカルーヨ(いずれもボリビアの古い2拍子系リズム)など「田舎」のものを多数含んでいるにしても、また、演奏家自身が多くの場合庶民階級の出身だとしても、客層は長時間でもステージ的には「地味」なインスト音楽を堪能できる耳の肥えた人々が中心となっていることには変わりない。現にラパスでもコチャバンバでも、チャランゴのコンサートやライブには大抵「静かに」聴く人ばかりが集まってくる。それが庶民の人たちを意図的に寄せつけないわけでは決してないものの、先に述べた庶民なりの音楽の愉しみ方とは完全に異なっているのである。ただし、ムシカ・ナシオナルの一大隆盛期であった70年代頃は、庶民の人々も普通にチャランゴのコンサートに足を運んでいたというし、今日では観客の90%が外国人観光客で占められ、また音楽芸術的には凋落の一途をたどっているラパスのペーニャ(フォルクローレのライブハウス)も、当時は音楽を「真剣に聴く」ボリビア人で連日満員となっていたという。その後次第に庶民の人々のエンターテイメントの性向が変化していったと同時に、中・上流層も近年の創作力に欠けるチャランゴ音楽には興味を段々と失いつつあり、代わってジャズやボサノバなど他ジャンルのライブに毎週末足を運ぶのが常となっている(#註3)。

(#註3;本稿では立ち入らないが、ボリビア音楽だけでなく「ボリビアにおける音楽事情」を概観すれば、より大きな問題としてロック、クンビアなどのジャンルがボリビア音楽そのものを凌駕するようになったことも指摘されよう。)

 だいぶ回りくどく述べたが、したがってチャランゴ・ソロはムシカ・ナシオナルの「大衆化」にともない著しく肩身の狭い存在となっているのが現状である。国民楽器であるはずなのに大衆化の波に追いやられるというのはとんでもない矛盾のようにも感じるが、少なくともソロスタイルの演奏家がこれ以上魅力的な活動を展開して行かぬ限り、チャランゴ音楽の復権は、近年ではチャランゴ奏者同士の同窓会のような雰囲気にもなりつつある2年毎のSBCチャランゴフェスティバルの開催だけでは到底無理なことのように思える。このようなボリビア「本国」での現況を思えば、「ボリビアもの」のコピーが中心である日本でチャランゴのソロ活動が停滞するのは当然の成り行きなのである。だからこそ私達日本のチャランゴ奏者は今後とも(日本では)まだまだ知られていないボリビア&他国の数多くのチャランゴ音楽を積極的に紹介するほかにも、一方ではよりオリジナリティに満ちた刺激的な活動をしてゆかねばならないと思う。先般の「チャランゴの集い」はファンの方々に日本のチャランゴ史の現段階を呈示することができただけでなく、まずは初顔合わせとなった演奏者間で音楽的&人的交流を深めていくための重要なスタート地点ともなった。今後チャランゴ奏者の輪をもっと広げていけるならば、また色々と可能性が膨らむことであろう。

 なお、年が明けたらボリビアのカブール氏やアルフレド・コカ氏(SBC現会長)に「集い」のビデオを私の方から直接手渡すことになっており、これらボリビアの巨匠からも貴重な意見や建設的批判を頂戴したく思っている。日本とボリビアの両国間で絶えず意見交換をしながら私達が心から愛するチャランゴ音楽を国境を越えたレベルで盛り上げていけたら素晴らしいのではないか。






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