チャランゴの起源をめぐる「感情」論争2006.3.12

 まずはお断りしておこう。今回のエッセイは多くのボリビア人にとっておそらくは複雑な内容のものになるであろうということを。しかしながら本サイトも近々スペイン語バージョンを発足させるので、その暁にはせめてとりあえず要約でも西語訳してむしろ多くのボリビア人や他の中南米人の感想をオープンな形で聞きたいものだと思っている。

 早速本題に入ろう。チャランゴの起源についてはこれまで様々な研究家や音楽家自身によって議論されてきた。そして今では一般的に「チャランゴはボリビア起源であり現在でもボリビア固有の楽器である」と(特にボリビアでは)言われている。そんな中でボリビア人のチャランゴや他の民俗芸術(舞踊、楽曲など一連のフォルクローレ)をめぐる国民感情は、度重なる諸外国による「盗作事件」云々の度に激しく爆発してきた。近年ではチリやペルーでボリビア・オルーロ地方の悪魔の踊り「ディアブラーダ」があたかもそれぞれの国独自のフォルクローレとして扱われ踊られている事実に対し、ボリビアの民俗学者らは断固たる抗議を行っている。この場合は明らかに「盗作」なのだから抗議は当然のことであった。また私自身過去に、リマ、クスコ(ペルー)やブエノスアイレス(アルゼンチン)の観光ショーで、ボリビアの曲や踊りが丁寧なMC解説つきで「ペルー音楽」や「アルゼンチン音楽」として堂々と紹介されていることにも疑問を感じていた。

 ただ、この先般に起こったばかりの別の「国民感情摩擦」は私から見れば更に熟考を要する出来事であった。ここに簡単にいきさつを述べよう。

 今年2月26日(日)にチリのリカルド・ラゴス大統領は、同国を公演で訪れていたアイルランドのグループU2のボーカル・ボノ・ボックス氏を大統領官邸(モネーダ宮殿)に招き、群集を前に1台のチャランゴを贈呈した。翌日にはボリビアのテレビ各局や各主要紙がこの場面をセンセーショナルにとりあげ、よって大多数のボリビア国民はチリ大統領のふるまいに対して怒りをあらわにしたのである。ちょうどテレビでニュースを見て知った私自身はそれほど怒りを感じなかったのであるが、周囲のボリビア人は一様にチリ批判、その後の数日間に出会ったボリビア人音楽家の友人のほとんども同じような様子であった。理由は簡単、チャランゴは「ボリビア特有の楽器」であるはずなのにチリの国家元首たる人物があたかも自分の国の特産品のように扱ったことに対して憤慨しているのである。

 3月2日(木)にはこの1月に発足したばかりのエボ・モラレス・ボリビア左翼政権下の文化次官エドガル・アランディア氏がモラレス大統領に直接、チャランゴがボリビアの文化遺産であることをチリ側に知らしめるためにチャランゴを1台、3月11日(土)にチリ・バルパライソで執り行われるミチェル・バチェレ・チリ新大統領(ちなみにチリ史上初の女性大統領)の就任式に贈答品として持参するよう要請した。

 そして就任式の前日である3月10日(金)にチリ入りした飾り気のないジャンパー姿のエボ・モラレス大統領は、記者団などを前にしたものの、実際にはほとんど非公式な場でバチェレ氏ににっこり笑いかけ「はい、チャランゴ」と、なんとも和やかな雰囲気の中でプレゼントしたのである。それを昨夜のテレビで見た私は「エボさん、なんともあっぱれ」と思ったものである。そう、先住民出身のボリビアの新大統領は国民楽器チャランゴを「喧嘩」の火種にすることを意識的にであれ、望まなかったに違いないのである(註1)。一国の代表として実に模範的な態度ではないかと思う。ところが、である。ボリビア有数の某テレビ局のニュースキャスターらは番組の中で「なぜ大統領はチリにいながらきちんと抗議さえしなかったのか」とこぞって批判したのである。

(註1)ボリビアは1879年に勃発した鉱物資源(硝石など)をめぐる太平洋戦争(ペルー・ボリビア連合軍対チリ軍)で敗退し海岸地方をチリに割譲して以来、チリとの関係はこの「海への出口」問題をめぐって悪化、時代は下って1978年には国交断絶までに至った(現在も領事館レベルに保留)。モラレス大統領の今回のチリ新大統領就任式出席は1952年にボリビアで発足したパス・エステンソロ革命政権以来の歴史的「事件」であり、このような機運の中でボリビア大統領はチリとの関係にはより慎重になっている、とも捉えられよう。

 数日後の3月14日(火)にはSBC(ボリビア・チャランゴ協会;ボリビア最大のチャランゴ関係者による組織)からの申請を受けてボリビア政府は、チャランゴをボリビア独自の文化遺産として制定すること等の条項を定めた法案(Decreto Supremo;大統領令)を受理、同法案は既に下院を通過、現在上院での可決が見込まれている(なお同法案は昨年からずっと申請の動きが見られていたもの)。

 こうしたいきさつの只中で、現在ボリビア国内では何人かの著名なチャランゴ演奏家や製作家がテレビや新聞などに登場し「チャランゴがボリビアの楽器であることを広く国際社会に伝えなければならない」とおおよそ同様のトーンで意見している。中でも「エル・チャランゴ」など様々な研究書でも知られる巨匠エルネスト・カブール氏はこれまでの研究成果をもって、チャランゴは16世紀にポトシ地方でスペインのビウエラ・デ・マノ(現在のギターよりずっと小型のギターの前身といわれる楽器)をまねて発明されたものと結論づけている。また、同じ植民地期にペルーで発明されたという一部意見に対しては、当時銀ブームで栄えたポトシはロンドン(当時10万人)を超える16万人もの人口を擁する西半球最大の都市で新大陸貿易の中心地でもあったのでそこが同時に文化の中心地であったと判断するのが妥当と答えている。この仮説は現在までのところ、チャランゴの出自に関するもっとも有力なものとなっており、長らく他の南米諸国からも目立った異論は見られなかった。他にまともな実証的研究がないことも手伝って(註2)、特にボリビア人のチャランゴ関係者がカブール氏の説にほぼ同調しているのは当然の成り行きである。

(註2)カブール氏本人は常に、「あくまでも自身の研究はフィールドワークを通した経験的手法であり、多大な1次、2次史料に基づく実証的なものではない」と表明している。

 一方、私が2001〜02年にリマに滞在し師事したことのあるペルー史上最高のチャランゴ奏者ハイメ・グァルディア氏(現在72歳)は、毎回のレッスン後の雑談の中でチャランゴはペルーがオリジナルとまでは決して語らなかったものの、植民地初期の16世紀には同氏の故郷であるアヤクーチョ県(ペルー南部)やクスコ県に既にチャランゴが存在していた、と度々話してくれたのを思い出す。グァルディア氏によれば、既に1640年にパリでスペイン人神父マルティン・マルセニが、現在のチャランゴ調弦の基となった16世紀のギターの「レソシミ(4度平行移調するとソドミラ、チャランゴのソドミラミに近い)」調弦について記された文献を出版していた、という。また、今でこそ稀少となりつつあるものの、一般に「ペルー型チャランゴ」といわれる裏板が平らなウクレレ状の楽器こそがチャランゴのオリジナルな形状であって、現在主流となっている丸底の木彫チャランゴはむしろその後ボリビアで発明されたアルマジロの甲羅を共鳴胴に用いたチャランゴの名残りであるらしい。このアルマジロ(ボリビアでキルキンチョと呼ばれる愛らしい動物)製のチャランゴについては、ボリビアきってのアルマジロ・チャランゴの製作家ヘルマン・リーバス氏から、この小動物を使ったチャランゴが発明されたのはせいぜい20世紀初頭前後であると伺ったこともある。

 更に、大昔からの師であるアルゼンチンの巨匠ハイメ・トーレス氏の話には考えさせられるものがあるので、この機会に記しておく。ハイメ氏は何十年も前より、チャランゴも含め現在ボリビア音楽で使われるすべての楽器が「ボリビアだけのもの」というボリビア国内の風潮に辟易しており、会う度にそれが話題にのぼる。たとえチャランゴがポトシ起源であることが事実だとしても、それから数百年も経った今現在ではペルー、ボリビアからアルゼンチン北部、チリ北部で広く民衆によって演奏されており、それぞれの地で「独自の」芸術文化として発展していることをネガティブに捉えること自体ナンセンスであると言うのだ。「発明」当時国境もなかった南米大陸のアンデス山岳周辺および盆地地方に広まったチャランゴの「国籍」を議論することがいかに無駄なことであるか。この国籍についてハイメ氏は「だって当時ポトシはペルー副王領だったし、その後18世紀にはラプラタ(現在のブエノスアイレス)副王領の管轄となったんだよ」、と冗談交じりに、しかし真剣に語ってくれたことがある(註3)。

(註3)先に述べた、アルゼンチンなどでボリビア音楽がボリビアのものと紹介されずに観光客向けに演奏されているという嘆かわしい事実の犠牲となったのもこのハイメ・トーレスである。ボリビアでは今でもこの巨匠がボリビア音楽を次々と「盗作」し大都会ブエノスアイレスで成金となったと考える音楽関係者が多数存在する。それが事実無根であることは氏のデビュー時からの40枚に上るレコード、CD類のクレジットを見てきた私自身分かりきっているし(すべてに作曲者名が記されているか、「ボリビア伝承曲」と明記されている)、またボリビア人を両親に持ち、たまたま両親の出稼ぎ先のアルゼンチンで生まれ同国の国籍を有することとなり、更に少年期の大半をボリビアで過ごしたハイメ氏にとって初期〜中期(60〜70年代)のレパートリーの多くがボリビア音楽であったことはごく自然なことであれ、批判の対象となるものでは決してないと考える。

 なおチリの場合は、アルゼンチンやペルーの事情とはいささか異なりオラシオ・ドゥラン氏(名門インティ・イリマニ(註4)のチャランゴ奏者)やフレディ・トレアルバ氏ら同国のチャランゴ演奏家らによれば、チリ、特に首都サンティアゴにチャランゴが初めて紹介されたのは比較的新しい時代、少なくとも60年代にビオレータ・パラ(チリ音楽史に残る社会派女性歌手、67年にピストル自殺)が滞在先のボリビアからチャランゴを持ち帰ったのが契機という。ビオレータの遺作となったLPのジャケット写真には若き日のエルネスト・カブール氏が写真用に貸したというチャランゴが彼女とともに写っている。ただ、北部のアントファガスタなど太平洋戦争以前にボリビア領だった地域では当然大昔からチャランゴは存在していたに違いない(こう言うと、ボリビア人はアントファガスタ等チリ北部海岸地域は今でもボリビアのもの、と主張するであろうが)。

(註4)このオラシオ・ドゥラン氏には1995年2月にアルゼンチンのとあるフェスティバルで互いに出演者という立場で初めてお会いしたが、その際に私は若気の至り(?)で「なぜ世界的にも有名なあなたのグループはボリビアの山の名前をとってインティ・イリマニ(イリマニ山の太陽)というのか。チリのグループなら例えばインティ・アコンカグアでいいのでは?」と訊ねたことがある。その際に同氏は「自分達は60年代に学生グループとしてデビューした頃からボリビアの豊かな音楽文化に大きな敬意をいだいており、したがって当時のレパートリーもほとんどがボリビア音楽をベースとしたものであった。これはいわゆるアメリカニスモ的思想(アメリカ大陸主義)から来るものであって、国境を超えたラテンアメリカの連帯を目指すものでもある」と答えてくれたのが印象的であった。

 結論を急ごう。結局のところ、多くのボリビア人チャランゴ関係者は「チャランゴはボリビアだけのもの」との認識を未だ有している。例えば毎年11月にアイキレ村で開催されるチャランゴ全国コンクールでは、「他国のチャランゴ奏者はわれわれの模倣をしているに過ぎない」との旨のスピーチが開催者側から過去にされたことがある。また同コンクールでは1昨年より「インターナショナル部門」が創設されたが、これに参加できるのはなんと外国人(非ボリビア人)だけ。同部門の創設案があった頃、その旨を知って私はボリビアのマエストロ達に口頭で疑問を呈した覚えがある(2004年4月頃)。「世界中に民俗楽器も含めあらゆる楽器の”国際”コンクールがあるが、国籍を参加資格に定めるのは聞いたことがない」と。これはすなわち、外国人はチャランゴの主であるボリビア人と同じ土俵で評価されるべきではない、という考えに基づくものにほかならない(ちなみにインターナショナル部門の初年度である04年に出場したのは4名の日本人のみ。その翌年にはブラジル人らやはり数人が参加しただけであり、今後の存続が危ぶまれている)。

 それではなぜボリビア人は、行き過ぎとも言える愛国感情をチャランゴに向けるのであろうか?この楽器が近隣諸国よりもボリビア国内でもっとも盛んに演奏されており奏者や音楽の層が厚いというのは当然の事実であろう。先のカブール氏の「起源」説も信憑性が高いと個人的には信じている。また、心ない商業主義が近隣諸国においてボリビア音楽を翻弄してきたことも否定できない。「盗作」に関してボリビア人やボリビア音楽を愛する(私も含めた)大衆が著しく不快に思うのも理解できる。しかしだからと言って(現在で言うところの)ボリビア国境の外側でも発展してきたチャランゴ文化に関して非寛容あるいは無知であるという現状は、偏狭な愛国主義による産物とは言えまいか?このような風潮は、いずれ「本場」であるはずのボリビアのチャランゴ文化そのものを停滞に招くのではないかと危惧している。チャランゴが無意味な争いの種ではなく、歴代の帝国主義により分断されたラテンアメリカ大陸を再び結びつける愛・平和の象徴とならんことを今は祈念するのみである。
(2006年3月22日改稿、ボリビア・ラパス市にて。)

★本稿は月刊誌「ラティーナ」2006年5月号で引用・紹介されました(P.54、ボリビア短信「チャランゴの奪還?」)。



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