月日のうつろひ 2009. 10
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10月4日 (日)  さようならメルセデス・ソーサ・・・

13日前からブエノスアイレスの病院の
集中治療室に入り、そして先週の火曜からは
人工呼吸器を必要とする状態、
何日も「危篤」と報道されていましたが、
とうとう最悪の事態となりました。
本日午前5時15分(アルゼンチン時間、日本より12時間遅れ)、
「南アメリカの母」とまで称されたメルセデス・ソーサさんが
74歳で亡くなったのです。

現在、購読者2000万人を超えるアルゼンチンの最重要紙「クラリン」
はじめ同国内の主要メディアやラテンアメリカ各国の新聞も
トップ扱いで報じています。
(クラリン紙)http://www.clarin.com/
(ソーサのオフィシャルサイト)http://www.mercedessosa.com.ar/

彼女は作詞も作曲もせずもっぱら歌うことだけに専念する
アーティストでしたが、
中南米では良く知られているように単なる「歌手」という
次元を超えて、
反軍政・左派社会運動・民主主義のシンボルで
あり続けました。

チリのピノチェト政権時代とならび
南米の軍政でももっとも血なまぐさかった1976〜82年の
ビデラ時代には右翼からの死の強迫により欧州への亡命を
余儀なくされていましたが、
同軍政終焉後の帰国後もそのカリスマ性から人気は衰えず、
そして、亡くなった今後も同様に
アルゼンチン音楽史上最高の女性歌手として
愛され続けていくことでしょう。

僕が彼女のステージを初めて見たのは88年のブエノスアイレス、
その時にはアリエル・ラミレスやエドゥワルド・ファルーなどの
超大御所なんかも共演していましたが、
むしろもっとも印象に残っているのは92年のメキシコシティでの
コンサート、キューバのパブロ・ミラネスとのジョイントでした。

ちょうど最高傑作(と僕は思っている)ライブアルバム
「De mi」が出たばかりのころで、
歌手としても一番脂が乗り切っていたと思います。
その感動的な熱唱に一曲目から最後までずっと
目頭が熱くなったのを昨日のように思い出します。

そして最後に聞いたのは2001年のリマ(ペルー)でしたが、
そのころにはだいぶ歌唱に疲れが見えました。

2003年秋には26年ぶりの来日公演が予定されましたが、
本人の体調悪化で急遽中止!、
これに泣いた日本のファンは多いことでしょう。

結局ソーサの来日公演は遠い昔の1975年と77年の2度のみと
なってしまいましたが、
彼女自身が語っていたように日本では言葉の壁があるために
ラテンアメリカでのステージのような一体感に欠けていたようで、
その後彼女が一向に来日することはなかったことと
無縁ではないかと察します。
プログラムに簡単でも曲目・内容解説を掲載するとか、
主催側の配慮の問題であったとも思いますが。

ところで僕は大学での一科目「音楽文化論」というので
毎年メルセデス・ソーサの生涯と音楽について
100人以上の学生に大教室で熱く語っています。
今年は彼女の訃報にまで言及しなければならないと思うと
つらいです。
しかしながら、「南アメリカの母」のあまりに大きな存在を
今の時代の若者にその片鱗だけでも知ってもらうことに
大きな意義を感じています。

その講義の中で必ず紹介する彼女の70年代来日時の
インタビュー中の「名言」があります。
それは次のようなものです(Q.は評論家濱田滋郎氏)。

Q.「もし誰かが、あなたをあまりにも“社会派的、政治的な歌い手だ”と評したら、
なんと答えられますか?」

A.「そういうレッテルを貼りたがる人もいますね。
私は政治色など全然ない愛の歌、抒情の歌も好きだし、
たくさんレパートリーをもっています。
私はただ、南アメリカに生きる民衆の一人として、
私たちの感じることを素直に歌っていきたいだけです。
人々に向かって仲良く手をつなごう、不正をなくそう、
人間らしく互いに愛し合いながら生きていこうと
歌いかけることがもしも“政治的”なら、
私は答えましょう。
これからもたくさんの“政治的歌手”が生まれてきてほしいと・・・。」

ラテンアメリカの「ヌエバカンシオン」を
たんなるプロテストソングの一種、
そしてそのアーティストたちはたんなる社会活動家である、
と勘違いしている人たちにも、ぜひ知ってほしい言葉です。

ひたすら合掌・・・・。


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